友がつく言葉は多い。友達、親友、戦友、悪友、学友、ママ友、メル友(古い)、ベル友(化石)。友とは何なのか?
「ともだち100人できるかな」という歌があるくらい、友達は多いに越したことはないと子供の頃からあたまに植え付けられている。あなたも「友達が少ない」=「悪いこと」だと教わってきたに違いない。しかし、はたして友達が少ないということは本当に悪いことなのだろうか?友達が多いということは本当に良いことなのだろうか?
そもそも友達とは一体何なのだろうか。
志や行動などをいっしょにして、いつも親しく交わっている人々。
コトバンク
互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。
goo辞書
そうは言うものの、人によって友達の「範囲」が違うと思う。例えば、欧米では一度話したり、誰かに紹介されたらもうそれは友達だ。少なくとも住んでいたスペインではそうだった。顔見知りなら全て「アミーゴ」になってしまう。おかしな話である。ギターを向こうで教えていたとき、ある生徒に「友達を紹介したい」と言われたが、よくよく聞いてみると母親同士が友達で、相手の母親の息子を紹介したかったらしい。そしてその生徒は、相手の母親の息子とは会ったことないらしい。それもアミーゴなのか…
では、自分が友達と呼んでいる人はどこまでの範囲なのだろうか。考えてみる。特に明確なラインは無いが、少なくとも相手も自分を友達の部類に入れていれば友達だろう。こっちサイドだけ友達と呼んでいて相手からそう認識してもらえてなかったら少し悲劇だ(笑)その反対もある。相手は自分を友達だと思っているが、こっちから見たらただの知り合いの時もある。この場合、いい迷惑である(笑)あとは、その「友達」のためにどこまで自己犠牲をはらえるか。それだ。その人が本当に困っているときに寸分の見返りも求めず、手を差し伸べられるかにかかっている。
ただ、その友達は何人いるだろうか?両手で足りるくらいではないか?少なくとも自分は両手で十分だ。と同時に、それ以上必要だとは思っていない。特に最近は新たな友達がほしいと思わない。断捨離してもいいかとも思っている。まぁ、人それぞれだとは思うが。生きてく上でのトラブルのほとんどが金か人間関係である。みすみす自分からトラブルのもととなるものを作らないでも良いとも思う。
ただ友達は絶対に必要不可欠なものだ。四十を過ぎてつくづくそう思う。
例えば同級生というのはたまたま同じ年に生まれ同じ地域にいたがために知り合ったものだ。作られた土台の上で知り合い、これを友達と呼べるかは謎だ(もちろん今でも付き合いはある)ただ、学生でなくなり、職場など関係なく友達になった人間というのは、何かしらお互い惹かれるものなど共通するものがあって行動を共にしているのだと思う。これは大切な存在になる。自分で言えば、音楽を通して知り合い意気投合した連中とは一生ものの関係だと思う。だから必要不可欠なのだ。
そしてもう一つの理由、友人は自分の鏡だ。自分がどんな人間か知りたかったら友達を見ればいい。そして一番大切だと思うことは、その鏡が自分が道から逸れているとき、間違っているとき、迷走している時にアドバイス・注意・警告をくれる。
確かに友達がいなくても生きていける。しかし、友達を持つことの意味はそこ、自分が洗練されるためにも大切なのだと最近思う。